女盛りの母と初体験して、そのままずっと・・・

ずいぶん昔、昭和の終わりころの話ですが、10年間ほど実の母と男女の関係にありました。まさか自分の母親とセックスするようになるなんて、その日の昼間までは考えてもいなかったことでした。
私の実家はこのサイトで多く目にする両親の不仲、母子家庭、父が単身赴任しているわけではなく、田舎の旧家で農業と商店を営んでおり比較的裕福でした。

父は養子でしたが母とは仲が良かったはずだし、そもそも私自身母に対してそういう感情や願望は全くなったので、私と母がそうなる理由と言うのが思い当たらないんです。
強いて言えば、その場の勢い、酒の力だったのか、母親に対する甘えの延長が度を越して、そう言う結果になったのだろうと思います。

私は中部地方の出身ですが、東京の大学に通うために初めて親元から離れて生活することになりました。
母との関係は、大学に入って半年ほど経った秋に始まりました。
田舎育ちで大学も工学系の学部だったこともあり、19になっても女性には全くと言っていいほど縁がなく当然のことながら童貞で、することと言えばエロ本を見ながら自分でシコシコとするくらいでした。

そんな私のアパートに母は月に1度か2度、掃除や洗濯に来ていました。
一人息子の私が可愛かったからかどうかはわかりませんが、掃除洗濯のほか1~2週間分のおかずを作って小分けにして冷凍してくれたので、ずいぶん助かりました。

実家からアパートまでは特急を使えば3時間半ほどでしたから、無理すれば日帰りもできましたが、たいがいは土曜日に来て日曜日のお昼すぎまでいました。

息子の私が言うのもなんですが、母は田舎では美人と言われていました。
芸能人で言うと酒井和歌子さんみたいな感じかな、細身で今風に言えばスレンダーと言うんでしょうが、その分胸やお尻も小さかったです。
父が養子に入った時も、周りの人からずいぶん妬まれたそうです。
田舎ですから若くして結婚し私を産んだので、大学の友達の母親よりもずいぶん若かったように覚えています。

関係が始まった時、私は19、母はまだ41になる少し前でした。
母が来ている時は、いつも二人でビールを飲みながら夕飯を食べていました。
今は厳しいようですが、当時は高校さえ出てしまえば酒もタバコも黙認されていた時代だったので、私はタバコを吸いませんが酒は友達とよく飲んでいました。

その日母とは2週間ぶりに会ったことになります。
夏休みは8月いっぱいまで実家に戻っていましたので、彼女もいない私にとって帰郷してから2週間くらいがちょうど実家が恋しくなる気持ちがピークになる頃だったんだと思います。
だからというわけではありませが、母が来てくれたことが東京に出てきて以来一番嬉しく感じました。

この日の夕食はやたらと食べやたらと飲み、ずいぶん会話が弾んだと思います。
酔ったせいもありましたが、なんだか急に母に甘えたくなり食事の片づけが終わった後も母のそばから離れず、と言うよりも膝枕してもらいベタベタとくっ付くようにし過ごしました。

そんな私を母は「どうしたの?そんなに甘えて」と笑って見ていました。
本当は子供の頃のように一緒に風呂に入りたかったんですが、アパートの小さなユニットバスではとても二人で入れないので諦めました。

今なら学生の下宿と言えば小洒落たワンルームマンションとかなんでしょうが、私の時代は普通のアパートが当たり前で、私のように和室2間に風呂付と言うのはかなり贅沢な方でした。

2間と言っても3畳と6畳ですから実質一間みたいなもので、ベッドを置くと部屋が狭くなるから布団を敷いて寝ていました。
だから母が泊まるときは布団を並べて敷いて寝ていたんですが、この夜は何だか母の温もりが恋しくて、思わず「一緒に寝ていい?」と言い、返事も聞かずに母の蒲団に入って行きました。

母は「なに赤ん坊みたいなことを言ってるの」と言いましたが、嫌がりもせず自然な感じで私を迎え入れてくれました。
この時点では、私自身この先に起こることなど考えてもおらず、本当に純粋にただただ母に甘えたかっただけです。

布団に入ると背中から母に抱き付いたんですが、無性におっぱいが恋しくなりパジャマに手を入れると、母が体をこちらに向けて「やめてよ…今日の聡は甘えん坊過ぎよ」と言って私の手をそっと除けました。

それでも私が「少しくらいいいじゃん」と言ってもう一度手を伸ばすと、笑いながら許してくれましたが、ほんの少しまさぐっただけで、母は「はい、もうおしまい。早く寝ないと明日辛いよ」と言って私の手を掴んでパジャマから出してしまいました。

「じゃぁお休みのチューしてよ」私が言うと、母は何の抵抗もないような感じで顔を寄せて来て、私の唇に軽くチュッとキスしてくれました。
私はてっきり頬にしてくれるものあと思っていたので、ちょっと驚きましたが、母は何事もなかったように「もう寝ましょう」と言って目を瞑りました。

ところが母が顔を寄せてきたときの甘い香りと唇が触れ合った時の感触が私の「男」を刺激したのか、信じられないことに物凄く興奮し勃起してしまいました。
そして気が付くと、母の上に乗りかかるようにして抱きしめていました。

母もびっくりしたようで、「なに!?苦しいから離して」と、初めて私を力強く押し返そうとしましたが、私は無我夢中で母を抱きしめて離しませんでした。
私は母の乳房を剥き出しにして、胸に顔を埋めるように乳首を吸いました。
母はそんな私が怖くなったのでしょう、私を叩いたり押し戻したり足をばたつかせて激しく抵抗しましたが、不思議と引っ掻いたり大声を上げることはしませんでした。

しかし私はビールを飲んで酔っていたこともあり、相手が母親だというのに女性の柔肌に触れて完全に狂ってしまい、母の肌に唇や舌を這わせて止めませんでした。

私の行為はどんどんエスカレートしていきました。
甘えているつもりが甘えの延長ではない領域にまでどんどん入って行ってしまい、気づけば母を全裸にしていました。

ここまで来ると、母はもう抵抗しませんでした。
私の好きなようにさせてくれましたが、私はこんなことをしたことが全くなかったので、勢い任せでここまで来たのはいいけれど、この後どうしていいのかわからずに、ただただ母の体中を撫で回したりキスしたりすることしかできませんでした。

母の陰部をを散々弄ったり舐めたりした後は、もうあとは本能の赴くまま、そんな感じで自分も全裸になって、なかなかうまくは行きませんでしたが、それでも何度も挑んでいるうちについに挿入してしまいました。

母の中はとても暖かったということだけ覚えています。
しかし私にはそんな感触を確かめている余裕など無く、挿入したまでは良かったけれどあっという間に母の中に出してしまいました。

射精し終わったあと、母から体を離した時に初めて我に帰った時に事の重大さに気づきましたが後の祭り、母の方に目をやると私に背を向けたまま声を立てずに泣いていました。
私は何度も母に詫びましたが泣いたままで返事をしてくれず、結局朝方まで二人ともそのまま眠ることもできずに過ごしました。

翌日、母と私は会話も交わせないまま、母は家事を終えるといつもよりもずいぶん早い時間にアパートを後にして実家に戻りました。
私はいたたまれずに、「駅まで送ってくよ」と言いましたが、母は「一人で大丈夫だから…」とだけ言って、嫌なものから逃げ出すように帰ってしまいました。

「もう部屋には来てくれないだろうな」、私は自分のしてしまったことの重大さに押しつぶされそうになりながら毎日を送りました。
ところが3週間後、母はいつも通りに私の部屋に来てくれました。
でもお互い気まずいというか、重い空気のままほとんど会話の交わせずにいました。

「あんなことがあったから、もう泊まって行かないんだろうな」、私は母をぼんやりと眺めながらそう思っていましたが、予想に反して母はいつも通りに泊まりました。

いつものように布団を並べて横になりましたが、変に意識してしまいなかなか寝付けませんでした。
母も同じで、眠れずに何度も寝返りを打ったりしていたので「この前はごめん・・・」と声をかけてみました。
母は気の無いような感じで「うん」とだけ言いました。

ところが、そのままぼうっとは母ことを見ているうちに私の中の悪い欲望が頭お持ち上げてきました。
「母を犯したい」、そう考えただけで体が自然に動きました。
私は適当なことを話しかけながら母の蒲団へ移ると、背後から母を強く抱きしめました。
母は体を固くしましたが、体でも言葉でも抵抗しませんでした。

「お母さん、ねぇ…こっち向いてよ」私が言うと、母は恐る恐る体をこちらに向けて私の顔を見ました。
私は母を抱き寄せると、強引に唇を奪いました。
舌を入れようとしましたが、歯をしっかりと噛み合わせていたので入れることはできませんでした。

唇を重ねている間、母は私のパジャマの袖をぎゅっと掴んでいましたが、嫌がったり突き放したりするそぶりはありませんでした。
そのあとは前の時と同様、母のパジャマを脱がし自分も全裸になって母の体中を愛撫した後挿入しました。

気のせいかもしれませんが、この時母は私が挿入しやすいように体の力を抜いて腰を少し浮かせてくれたように思いました。
母は苦しそうな呼吸をつづけていましたが、終始無言のまま私のしたいようにさせているといった感じでした。
この時も無我夢中だったので、母の中に溜まっていたものを吐き出してしまいました。

ことが終わった後、前の時とは違い私の中に不思議と罪悪感のようなものはなく、私はすぐに母と体を離さずに、母をしっかり抱きしめて何度かキスをしました。
母は涙を流していましたが、舌を入れようとしても拒みませんでした。
さすがに絡めてくるようなことはありませんでしたが、私が母の口の中を舐め回すように舌を動かしても拒みませんでした。

そして前回は一度きりでしたが、この時は異常に母が欲しくなってしまい、このあと2度も母を抱きました。
母は終始無言でしたが、最後のころは私の背中に手をまわしてきました。
しかし抱き付いてくるのではなく、私の背中に手を置いている感じでした。

翌日、母とはほとんど会話できないままお昼過ぎに見送りました。
母が返ったあと、何度も電話しようと思いましたが、電話しても何を話して良いのかわからずに、ダイヤルを回しかけては止めるを何回も繰り返し1ヶ月が過ぎました。
母が1ヶ月目の週末になっても来なかったので、私はいよいよ茫然としました。

「今度の週末も来てくれないだろうな…きっともう二度と来てくれないだろう」
そんな風に考え始めた土曜日の午後、母は何事もなかったかのような表情でアパートに来てくれました。
私は大学の帰り道に友人と買い物に出かけていたので、アパートに帰ったのは5時を過ぎていました。

帰宅すると母が「おかえり」と明るく声をかけてくれたので、すごくびっくりしました。
私はばつが悪いというか、まともに母の顔を見ることもできずに「ただいま」とだけ答えて、母から離れたところに腰を下ろしました。



母は夕食の支度を済ませると、私のすぐそばに腰を下ろしました。
「晩御飯食べよう」「うん」そんな会話を交わした後、テーブルにハンバーグとビールを置いて私に早く来るように言いました。

久しぶりに母と向かい合って食事をしましたが、私からは何も話しかけることができず、母の視線や話しかけらるのから逃げるように、部屋の隅に置いてあったテレビに視線を向けていました。

母の言葉を上の空で聞いているふりをしていると、母が立ち上がってテレビを消しました。
私は仕方なく母と話をしながら食事しましたが、一方的に話しかけてくる母に対して、私は生返事と適当な答えしか言えませんでした。

その夜のことでした。
私が風呂から出て部屋に戻ると、母が布団の上で正座して待っていて、私にも座るように言いました。
母が少し抑えた声で「今夜もああいうことをするの?」といきなり聞いてきました。
私は「わからないけど…」と答えました。

母は「私は覚悟を決めてきたから、聡がしたいならかまわない。でも一つだけ聞きたいのは、なんで私なの?」と私の顔を覗き込むように言いました。
そんなことを聞かれても冒頭に書いた通りなので、私は「お母さんに甘えたくて…甘えているうちにエスカレートしちゃって…」としか答えられませんでした。

すると母は「甘えの延長だったら甘えさせてあげても良いけど、もしもお母さんのことを1人の女性としてのことならば、お母さんは聡にこれ以上許すわけにはいかないの」と言いました。

「え?どういう意味?」と聞き返すと、母は
「お母さんはお父さんと結婚しているし愛しているの。男女の愛は聡に対する親子の愛とは全く違うものなの。わかるわよね?」、
続けて
「もしも聡が私のことを母親ではなく女性として愛しているならば、聡を受け入れてしまうお母さんはお父さんに内証で不倫をしていることになる。でも聡のしていること甘えの延長ならば、母親として受け入れても不倫にはならないから」
と言いました。

そして最後に
「これだけは守ってね。このことは絶対に秘密にすること。もう一つ、絶対に私のことを女性として好きにならないこと。もしそんなことになって、聡とお父さんがいがみ合ったり、二人のことが人に知られたりしたらお母さん聡を殺して自分も死ぬから」
と私に念を押すように言いました。
私は母の物凄く真剣なまなざしに飲まれてしまい、黙って頷くことしかできませんでした。

話しが終わると、母は自分からパジャマと下着を脱いで私も裸になるように言いました。
私が裸になると、母は私向って両手を広げました。
私は引き寄せられるように母の胸に飛び込み、そのまま上に重なるように布団の上に倒れました。

この夜から母は変わりました。
それまでは、ただ体の力を抜いて終始無言のまま私に身を任せるようにしていただけだったのに、唇を重ねて舌を入れると母も舌を動かして絡めるようにしたり強く吸い返してきたりしました。
母の方から唇を重ねて来たり、首や胸にもキスをしてくれ、初めてペニスを手で触ってもくれました。

私が母の体を愛撫するときには、私がしやすいように体勢になってくれもしました。
それまでは無言だったのに、この夜からは小声ではありましたが、ときどき「あっ」「はぁっ」と言うような声も出すようになりました。
とにかくそれまでの母とはガラっと変わったことに戸惑いを感じるほどでした。

挿入すると母も腰を動かしました。
私はこの夜、初めて冷静にと言うか落ち着いて感触を確かめながらセックスできました。
それまではただ単に暖かいくらいしか感じることができませんでしたが、この時始めてペニスに絡みついてくるヌメリ感、呼吸に合わせてアソコの中の閉まり具合に強弱があることなど、初めて感じることができました。
そんなことを一つ一つ感じながらだったためか、思いのほか長い時間母を感じることができました。

そのとき母が少し荒い息を吐きながら、「出したくなったら早めに言って、今日は中で出しちゃダメだから」と言いました。
私が言われた通りに「もうすぐ出そう…」と言うと、母は私の下から抜け出るようにしてペニスを咥えました。
あまりにも唐突な行動だったので私も「えっ!?」と思いましたが、先の方を吸いながら指でしごかれて、速攻で母の口の中に射精しました。
母は私が出したものを吸い出すと、そのまま飲み込んだようでした。

体を離したあと母とじゃれ合うようにしていると、「聡が小さい頃、外で遊べない日は家の中で二人でおままごとして遊んだでしょう…あれの続き、これは新婚さんごっこ」と言ったのが今でも忘れられません。

当時はそんなものかと思いましたが、今になってわかることは、母は母なりに私たち親子の禁断の行為をそう思い込むことで自分の気持ちに折り合いを付けていたのでしょう。
その言葉を聞いて、私は調子に乗って「新婚さんはもっと激しくてエッチなことするんだよね」と母の体を求めました。

私自身も「ごっこ遊び」と言う母の言葉で凄く気が楽になったこともありましたが、貪欲に母の体を求め、母にもして欲しいことを言ってしてもらいました。
「新婚さんごっこなんだから、それらしく名前で呼ぶよ」と言って、母を佐和子と呼びながら明け方まで激しく交わり合いました。

それでも翌日は普通の親子に戻り、特に母は何事もなかったかのように振る舞い、いつも通りに午前中に料理を作り小分けにすると、夕方の特急に間に合うように帰りました。

このあと3ヶ月くらいは同じような感じで、2~3週間に一度アパートに来て、夜はごっこ遊びをして日曜日の夕方田舎に帰るというパターンでしたが、私が正月に帰省し東京に戻ってから、母の行動というか態度が少しずつ変わって行きました。

ちなみに帰省中は母と私の関係などおくびにも出さないで、家族と接していました。
先ず、必ず2週間に1度必ず来てくれるようになり、それもそれまでは午後に着くように来ていたのに、朝1番くらいの早い特急で、10時前にはアパートに着くように来るようになりました。

私は土曜日も大学の授業があったのですが、昼過ぎにアパートへ帰ると母がお昼を作って待っていてくれるようになりました。
それだけではありません、土曜日は私が帰宅した瞬間から「新婚さんごっこ」が始まるようになりました。

「お帰りなさい」と言いながら抱き付いてきて激しいキスを交わす、お昼を食べた後は玄関にしっかりと鍵を掛け窓とカーテンを閉め切りセックスに耽るという感じになりました。

なんだか心配になったので、「親父と何かあったの?」と聞いてみましたが、「別になにも変わってない、ただ聡が可愛いだけ」としか言いませんでした
父も母より3才上だから、まだセックスレスにはなってないだろうし、気真面目な男である以上に、世間が狭い田舎で浮気もできないだろうから、母の言葉は本当だろうと思いました。

ところが、私以上に母がこの生活にどんどんのめり込んでいきました。
お盆や正月も、私が帰省して長く滞在すると母が東京に行けないから早く帰れというので、帰省してもせいぜい1週間~10日程度しか実家にはおらず、父や祖父母には何やかやと理由を付けて東京に戻ってきました。
こうなると、いくら鈍感な私でも母の様子がおかしことに気づきました。

そこで母が東京に来た時に、改めて聞いてみました。
母はなかなか本当のことを言いませんでしたが、それでも私が「家族のことなんだから本当のことを教えてほしい」と詰め寄ると、母は重い口を開いて「お父さん、聡が高校生の頃から前から前立腺の病気でほとんどダメなの」とだけ言って顔を伏せました。
私は急に母が可愛そうになり、「わかったよ、もう何も言わなくていいから」と言って強く抱きしめました。

母も当時は40代前半でしたから、どうしても男が欲しくなる時だってあったのでしょう。
そんな私が母を犯してしまった、だから母も腹をくくって私との関係を容認したということがわかりました。
同時に父のことを、すごく可哀想だとも思いましたが、心のどこかで母のことを独り占めできるという嬉しさも感じました。

私は自分自身に対して「親父の代わりに母を満足させてやってるんだ」と言う言い訳をするようになりました。
もっとも、母との関係について「甘えの延長のごっこ遊び」と思っていたので、酷い罪悪感や背徳感はありませんでしたが、そこへ更に父の代わりと思うことで自分自身の行為を完全に正当化しようとしていました。

母との行為も急激に濃厚で淫らな方向へ進んでいき、もはや「甘えの延長の新婚さんごっこ」の域は超えて、完全に母と息子と言うことを忘れた「ただの男と女」になっていきました。

母も一番最初に私に言い聞かせた言葉など忘れてしまったかのように、私との関係にどんどんのめり込み、行為そのものも日を追うごとに淫らになっていきました。

3年生になると、母は毎週来るようになりました。
更に夏休みに入ると、私が帰省した10日間を挟んでアパートに1週間の滞在を2回もしました。
もちろん毎日朝から晩までセックス三昧の日を過ごしたことは言うまでもなく、帰省中も「買い物に行こう」と、父の車で隣県のインター近くにあるラブホテルに行くほどでした。
もしかしたら父も薄々は気づいていたのかもしれませんが、家族の前では普通の親子の顔で平然と過ごしていました。

4年生の時も同じように過ごした後いよいよ就職と言うことでしたが、私は実家を継がなければならなかったので田舎の役所に入りました。
父が「俺が70になるまで心配しないで外で働け」と言うので、出世のことなど考えずに家の仕事を手伝いながらの役所勤めを選びました。

母とは実家に帰ってからも関係を続けました。
そのために田舎に戻ったようなもんですから、父の目を盗んでは禁断のセックスに耽りました。
しかしそれは大変な苦労を伴うものでした。
なにせ田舎ですから何処に知り合いの目があるかわからない、もしも誰かに見つかれば瞬く間にうわさが広がってしまうので、そうとう気を遣いました。

父が旅行や商売の寄合で家を空けている時が一番安心してできましたが、それ以外の時は高速で両隣の県まで行って、ラブホテルを使いました。
私は思い切り楽しめるラブホテルが好きでしたが、母も声を上げても気を遣わなくていいので、同じようにホテルでするのが好きなようでした。

私の学生時代のアパートも実家も、声を殺さないとセックスしてることがばれてしまいましたから、ホテルでは思いきり声を上げて楽しみました。

実家でのそんな暮らしが5年ほど続いた頃でしたが、母も50を少し過ぎたところで更年期障害ののち閉経しました。
母に言わせると二通りあるようで、閉経しても性欲が衰えない人と、閉経を境に性欲が無くなってしまう人がいるとのことで、母は後者でした。

それでも「甘えの延長」で、しばらくは関係を続けていましたが、母から「もう辛い」と言われて関係を止めることにしました。

私も30になり、職場の上司や仲間から早く嫁さんをもらえとうるさく言われ、同じ職場にいた4才下の女性と1年の交際を経て結婚しました。
それが今のカミサンですが、私はこの歳で母とカミサンしか女性を知りません。